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河川争奪 - 分水嶺は動く


 下の地図と3D画像は島根県鹿足郡吉賀町 (旧六日市町) と山口県岩国市 (旧玖珂郡錦町) との間、日本海と瀬戸内海を分ける分水嶺ですが、なぜこのような地形が分水嶺なのか、大いに興味をそそられるところです。

 

赤い線が分水嶺です。 盆地状の平地を川が直角に横切って深い谷を作っており、分水嶺はその谷の縁に沿って盆地を横断しています。 おかしな地形です。

 

 

下の3D画像は上の地図を南東の方から鳥瞰したものです。

  

分水嶺という言葉からは、切り立った嶺や厳しい峠道を思い起こしますが、これはどうしたことでしょうか。 このような分水嶺を 「谷中分水界 (こくちゅうぶんすいかい)」といい、その成立の過程は以下の通りです。

 

「河川争奪」と呼ばれる川の流れの変化とそれに伴う地形の変化がこのようなおかしな分水嶺を作り出しました。 

 

上の地図の右側を南北を流れる宇佐川の源流から流れてでていた川は、左側の平になっているところ (向峠西と吉賀町と書かれてるところ) を流れていました。 また現在真中の深い谷を流れる深谷川は、以前は山から流れ出てこの平なところで、南西の方へ流れているその川と合流して現在の高津川となって日本海に流れていました。 この部分の河床堆積が生まれ (埋積谷 まいせきこく) 流路標高が高くなると同時に、瀬戸内海に流れる錦川の支流 (現在は宇佐川) の源流が地図の右上辺りで上流の方に向かって侵食を進め (谷頭侵食といいます) た結果、この高津川の上流部分の河床まで達してその流れを瀬戸内海側に変えてしまったのです。 奪われた方の川を載頭川 (せっとうがわ) といいます。 そして左上から流れ落ちて平なところで高津川の上流に合流していた深谷川は、水の流れがなくなってしまったところ (「無能谷」あるいは「不適合谷」といいます) に山から流れ落ちる勢いで旧河床を直進して、前方の向峠 (むかたお) 付近の山を侵食して崩して、低いところを流れている新しい宇佐川に再び合流して、その流路が深い谷 になったのです。  この深い谷は埋積谷の中心部分をスパッと胴切りにしているので、この谷の側面を見ると、旧高津川がここで埋積していった様子が見えることになります。  争奪が起こった場所を「争奪の肱」といいます。 深谷川の争奪の肱は向峠ということになります。  この間、2度にわたる河川争奪が起こったことになり、その都度、分水嶺も移動しました。  この河川争奪が起こった時期については国土交通省は更新世(170年前から10万年前)の中〜後期として (国土交通省・河川局 「高津川水系の流域及び河川の概要」 35ページ) いますが、地質調査では旧高津川河床の地層から縄文時代草創期の遺物が発見されたことから、もっと新しく 約12,000年前頃だったのではないかとも言われています。 それが正しければ、現在の深い深谷渓谷は縄文時代草創期はまだ浅い谷だったことになります。  その時の周りの地形がどうなっていたかは分かりませんが、分水嶺の変化は大体次のようだったのではないかと思います。 

 

 

島根県と山口県の県境がこの因縁の深谷川になっているのが不思議です。 昔、国境を決めるとき、時の権力者がこの河川争奪を知っていたのかと思わせる不思議さです。 深谷川は周防の国の錦川に流れているのに、歴史以前にはその水が石見の国を流れて日本海に流れ出ていたことを知って、その水を分け合ったのでしょうか。  また、出雲から逃げてきたヤマタノオロチが田野原の一本杉に宿り、高津川の水がここから湧いたとの伝説がありますが、古よりこの地形の不思議や大きな川なのにその源がない不思議から生まれた伝説でしょうが、河川争奪は思いもよらなかったのかもしれません。  この伝説と一緒に島根県名樹百選に選ばれている「田野原の一本杉」と名水百選に選ばれている「大蛇ヶ池」は現在では、「水源公園」として整備されて観光資源になっています。  この杉の木の横には「水源会館」があり、この河川争奪についても、丁寧に説明があるそうですし、夏には「水源祭り」まであります。  ダムが一つもなく、清流として有名な高津川が、ここを水源として日本海まで一つの名前で続く大河川であることがこの地域の人々にとっては大きな誇りになっているのだと思います。  が、ここ「一本杉」や「大蛇ヶ池」が「高津川の水源」とはいえ、元はこの盆地を流れていた大きな川に流れ込んでいたここの湧水が深谷川が宇佐川に取られてしまって川がなくなり行き場を失って、この埋積谷の旧河床あるいは地下水脈を通って現在の高津川に流れ込んだだけのことですから、下流から谷を遡ってその最後ついに一滴の木の葉の雫で始まる「奥深い源流」の「水源」のイメージとは少し異なるので誤解しないようにしなければなりません。 日本海小学校の高津学級で一番の宇佐君が瀬戸内小学校錦分校に転校してクラスからいなくなって、二番手の深谷君が一番になり、さらにその深谷君もまた同じ瀬戸内小学校錦分校に転校して三番手の田野原君が高津学級で一番になったようなものです。

 

もう一つの谷中分水界の有名な例が、兵庫県・丹波の竹田川と宮田川の争奪で、現在の杉の谷川はかつて宮田川に合流して加古川から瀬戸内海に注いでいたのですが、日本海に注ぐ由良川水系の竹田川の谷頭侵食で、ついに栗柄峠までも侵食されて、竹田川に流れを変えました。 この「争奪の肱」の栗柄峠では落差4mの「倶利伽羅の不動の滝」となっています。 この河川争奪は今から約 2万年前に起こったそうですから、大勢の人がそれを目の当たりにしたわけで、縄文人もびっくり、まことにロマンチックですな。

 

 

この栗柄峠のような片方が平地で他方が厳しい勾配になっている峠は片峠 (かたとうげ) と呼ばれています。 碓氷峠も典型的な片峠ですが、これは約100万年前に溶岩噴出で平らになった土地が数10万年前に霧積川の浸食によって削られてできたものです。 

 

もっとも私も見てきたような書き方をしていますが、現代でも普通の人は変った地形を見ても自然現象である河川争奪など思いもつきません。

 

さらにもう一つの河川争奪の例です。 日本海に注ぐ江の川 (ごうのかわ) に合流する簸川 (ひのかわ) の上流部分が瀬戸内海に注ぐ太田川に合流する根之谷川に奪われたケースです。 埋積谷を作ってその表面を流れていた簸川の源流部分が根之谷川の蛇行による浸食で削られて、この上流部分が根之谷川に流れ込んでしまったケースです。

 

 

本州の中央分水嶺は北は津軽半島の竜飛崎から西は下関の火の山までを貫く1本の線ですが、これを地図で細かく追いかけていくと、途中でどうもおかしい地形に何度もぶつかります。 そのたびに、この地形はどうして出来たのだろうかと興味がそそられて、調べるうちにこのように面白い地理の知識が得られました。

 


ここで表示した画像はすべて、国土地理院の数値地図データとカシミール3D、それに Adobe Photoshop Elements (PSE) を使って作成したものです。